エド&リーのブログ

別居中のアラフォーゴーストライターです。生き様もほぼゴーストです。結論の出ない話多めです。

なぜこんなに嘘が嫌いなのか

昨日病院で「気分の落ち込みはないですか?」と聞かれて、「最近はそういうのはないですね」って答えたばかりなのに、今、落ちている。

希死念慮とシーソー

こんなことを書いたら今この記事を読んでいる方にドン引きされると思うが、今この記事を書き始める2、30分前くらいは「死んじゃったらどうかな」という気分になっていた。そういう時に想像するのはだいたい薬を大量に飲むか首を吊るかなのだが、そういう想像をしつつもそれを客観的に眺めている自分がいるのもわかる。

私は実際に死んでないし、死んだ人から話を聞いたこともないからわからないけど、死んでしまう人というのは、例えばさっきの「死んじゃったらどうかな」って思っていた自分が100%のうちの80%で、客観的に眺めていた自分が残りの20%だとしたら、そのバランスがシーソーみたいに一気に死にたい方に100%で傾いてしまったのではないかと思う。私の気持ちの落ち込む時ってまさにそんな感じで、まぁいつもゆらゆらはしているのだけれど、結構落ちる時は急に落ちてしまう。

しょうもない理由

で、なんで落ちているのかというと、理由はすごくしょうもないことで、子どもが嘘をついたのだ。昨日は息子で今日は娘だった。昨日のことがあったから余計に今日はその傾きが急になってしまったのだが、どちらかというと娘は発達のことも関係してか結構不思議ちゃんな感じで、純粋な感じなので、その娘がこれまである嘘をつき続けていた、前はそんな嘘つかなかったのに、みたいな感じで結構ショックだった。娘に対して「嘘つかれてショックだわ」みたいなことを言ったりもしたが、それで気分が晴れるわけでもなく、そして、一応もう片方の親ではあるので、そういうことがあると私は夫(仮)に報告をするのだが、夫(仮)は「小学生あるあるだね。俺からも言っとくわ(終)」みたいな簡単な返事しかせず、「あぁこの人ってこういう反応しかしない人だった」と、報告した後に報告したことを激しく後悔するのだった。今に始まったことではない。夫(仮)とはそういう人なのだ。何のフォローもない。放置されるだけ。一緒に暮らしていないから忘れかけてしまうけど、共感とか求めても無駄なんだった。そもそも男の人ってそういうの苦手っていうし、ていうかそもそも夫(仮)だって私に隠れて酒を飲むような人なんだし、共感するわけないし。ていうか共感してくれる人だったら私も今こんなことになってなかっただろうし、など、色々と考えて今に至る。

今の気持ちを観察する

今年の春、子どもたちが春休みだった時、子どもたちと家に一緒に居る時間が長かったこともあり、私は毎日のように子どもに怒っていた。そして、私はいつもの心理士さんに「子どもを怒った時に怒りの感情が抑えきれなくなってしまう。そしてそういう時、自分の父みたいな怒り方をしていることに気づいたりして死にたくなる」みたいなことを相談したのだが、その時に、そうなってしまうのは仕方がないことだといったような話もありつつ、対処法的なこととして「怒っている時に自分の感情を観察してみる」的なアドバイスをもらったのだった。

今は怒りというよりも悲しいというか、本当に子どもに嘘をつかれたことが悲しいというかショックというか、怒鳴り散らすとかそういう感じじゃなくて、本当に絶望、みたいな、喉の奥に何か重いものが詰まってる感じがして、吐き出したいみたいな、そんな感じなのだが、私は心理士さんにそのアドバイスをもらってから、感情が大きく揺らぐ時には自分の感情がなぜそうなっているのか?ということを、完全な客観視なんて全然できていないのだが、客観視しようと努めることを繰り返している。で、今も子どもをなんとか布団に入らさせるところまで持って行ったあと、風呂を掃除したり洗濯を干したりしながらやっていた。

嘘つきが大嫌い

私がなぜこんな気持ちになるのか考えてみたら、やっぱり嘘をつかれるのがすごい嫌いなんだと思う。夫(仮)の言うように、今日私が「こんな嘘をつかれた!」と夫(仮)報告したことだって、100人いたら80~90人くらいは「そんなこと」みたいな、まさに「小学生あるある」的なことで済まされることなのだろうと思う。いや、私だって「嘘のレベル」みたいな尺度で今日つかれた嘘を測ってみたら、今日の嘘なんてめちゃくちゃ低レベルな嘘であることはわかっている。しかし、嘘のレベルとかの問題ではなく、「嘘をつかれること」っていうのが私はすごく嫌なんだと思う。

で、なんでそんなに嫌なのかについて考えていたのだが、多分考えながらもいつも表面化している問題は地下水脈のように子どもの頃の体験とかに繋がっているんだろうなと、結局そこに行き着くわけなのだが、やっぱり私の場合はごく身近な人間、つまりはそのきっかけとなったのは親なんだと思う。思い出せるのは「嘘のレベル」でいうと結構大きめなことしか今は思い出せないが、多分そういうところからこの「嘘をつかれること」を激しく嫌悪する気持ちがきているのではないかと思うのだ。

で、それは時を経て、別の身近な人間、つまりは夫(仮)へと移行した。私はそこでまた夫(仮)が隠れて酒を飲んでいたり、酒を隠し持っていたり、みたいなことで「嘘をつかれること」にやられたのだった。やられたというか、私がそういう受け止め方をしてしまうというか、アレルギー反応みたいなのを起こしちゃうんだと思う。

で、それが次は今子供との間で起こっているのではないだろうか。

「切り札」がないからしんどい

そしてなぜそこで苦しむかというと、それは身近な人間だからだ。例えば仕事上繋がりのある人とか、友人とかであれば、嘘をつかれた時点で自分が「嫌だ!」と思えばいつだって関係を切れるから、逆に仮に「嘘ついてるな」と思っても、ある程度までは許容できているような気がする。ある意味「最後の切り札」が使えるとわかっているから、あそびの部分があるのだ。

しかし、身近な人間、親であったり、夫(仮)であったり、子どもの場合はそれができない。関係を切ろうとしても切れない、物理的な問題ではないところで切れないとわかっているから苦しむのではないだろうか。

このへんの話はまた来週、心理士さんのところへ行った時に話してみようと思うが、とにかく今夜はそんな感じだった。というかそんな感じの今である。

で、こういう時、何が辛いって、「嘘をつかれること」がめっちゃ嫌なのに、その嘘をついた人と一緒にいなければならないということだ。かつてはそれは親であり、夫(仮)でもあったが、今は子どもだ。親や夫(仮)は放置しても死なないが、子どもに関しては私が放置したら死ぬ危険性がある。いや、実際は子どもらは学校にも通っているし、私がどこか高飛びでもして子どもたちと社会との繋がりを断ち切るくらいしないと死なないとは思うが。そして、そこは私も一応親なので「子どもは守らなければ」という本能的なものが働くのでそんなことはしないというかできないが、そういう「逃げたい」「でも逃げたくない」みたいな、相反する気持ちが一つの心の中に生まれるから余計にしんどいのだ。

ということでとりあえず勢いに任せて書いてしまった。明日またこの記事を読み返して自分の気持ちを再び整理したいと思う。私はきっと明日も生きるつもりでいるんだろう。

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