エド&リーのブログ

別居中のアラフォーゴーストライターです。生き様もほぼゴーストです。結論の出ない話多めです。

あぶくの家 ⑪虚ろな道(第一章・終)

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前回の話↓

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二度消えた夢

幼い頃から絵を描くのが好きだった。そして「好きこそ物の上手なれ」とはよく言ったもので、小学生になると私の描いた絵は毎年のように市の美術展に出品されるようになっていた。親戚の伯母さんから「小学校の遠足で動物園に行った時、他の子は絵日記に動物園の話を描いてたのに、Yちゃんは汽車から見えた景色のことを描いてたんやって?お母さんが『あの子は感性がちょっと違う』っていうて褒めてたで」という話を聞かされて、なんだか嬉しかったことを覚えている。

中学になり一度は友達と剣道部に入るものの、部のゴタゴタに巻き込まれ1年で友達と退部し、2年からはまた同じ友達と美術部に入って、放課後はずっと絵を描いていた。美術部の先生がとても厳しい人で、部員は皆、常に何かのコンテストに向けて絵を描いていなければならなかった。その甲斐もあって、やがて私の絵も出品したコンテストにしばしば入選するようになった。ある時、新しくできる「海の日」を記念した海の絵のコンテストに私の描いた絵が入選し、私は神戸のホテルで開催される授賞式に母と一緒に電車を乗り継いで出掛けた。授賞式のあと、副賞だった神戸の港を巡るクルーズ船に母と一緒に乗った。母は喜んでくれていたと思うし、私が美術の道に進みたいと思っているのはよく理解していたはずだ。

しかし、そんな私の夢は中学と高校の二度に渡りあっけなく消えた。「絵なんて学校へ行かなくても描けるだろう」そう言う人もいるだろう。たしかにそうかもしれない。ただ、私にとって唯一の「学びたいこと」というのが美術だった。それ以外に学びたいと思えること、楽しいと想像できることがなかったのだ。貴重な学生という時間を美術を学ぶために費やしたかった。その先の将来なんてどうでもよかった。画家になんて簡単になれるわけでもないし、美術の先生になりたいわけでもなかった。ただ、誰にも邪魔されず、自分が心からやりたいと思えることをやってみたかった。でも、できなかった。

先生の話

そんなこともあり、やりたいことができないという現実を突きつけられた私は、余計に大学へ進学するという気持ちがなくなっていたのだった。やりたいことができないのに、何が楽しくて大学受験などしなければならないのか。そもそも何のために大学に行かなければならいのか。そんな風に思っていた。だから、3年生になって周りが大学の話をし始めても、私は専門学校に行くつもりで専門学校のパンフレットばかり集めていたのだった。

しかし、そんなある日のこと、担任とは別のある先生がこんな話をしたのだ。「みんなの中には『なんで大学に行かないといけないんだろう』『やりたいことなんてわからない』という人もいるでしょう。僕も高校生の頃そうでしたが、とりあえずなんとなく大学に行きました。大学に行くと自由な時間がたくさんあります。でも、大学を卒業したら社会人です。生活をするためには働かないといけません。でも、大学の間は働かなくてもいいんです。僕は大学生の間、色々なことを考えました。今となってはあれほど自由な時間はありません。あれだけの自由な時間を過ごせただけでも、僕は大学に行って良かったと思っています」――。

その話を聞いてから私は、4年制大学という選択肢を交渉のカードのひとつに加えても良いのではないかと考えるようになった。そして関西にある芸術系の大学のパンフレットを片っ端から集めた。ただ、それはどれも私大だった。父から家を出ることが許されない私大である。そして当然ながら私が行きたいと思う美術系の学科は全て試験科目にデッサンがあったので無理だった。

その中で、ひとつだけ総合学科のようなものがある大学が大阪にあった。要は浅く広く芸術について学べるような学科である。私の学びたい勉強はできないと思ったが、試験は面接と小論文だけだったし、偏差値も低いので試験を受ければまず入れるだろうと思った。その大学は大阪の端にあり、とてもではないが自宅から通うことは無理な距離だった。つまり、国公立大でなければ家を出てはいけないという父の条件とは相容れないものだった。

「こんな無理な条件を突きつけたら父はどういう反応をするのだろう」そう思った私は父に「4年制の大学に行くなら、この大学のこの学科しか受けない。ここを受けられないなら専門学校に行く」と言って交渉をした。

空虚な見栄

ステイタスを気にする父が選んだ答えは4年制の大学だった。芸大というのは学費が高いことで知られているが、それでも父は4年制の大学を受けろと言った。「でも、この大学に行くんやったら家出んと通えへんけど…」私がそう言っても、父はその大学を受けるように言った。兄や姉が駄目だと言われていた私大であるにも関わらず、父は家を出ることをあっさりと認めたのだ。

お金のこともあるし、ましてや家を出なければならないし、さすがの父もそこは折れて専門学校へ行くことを認めるのではないかと私は思っていたが、父は自分が掲げていた条件を捨ててさえも、私が4年制の大学へ行くことを望んだのだった。

そして、「それほどまでして4年制の大学にこだわるのか」と呆れている私の本心などつゆ知らず、父はその大学のパンフレットを見ながらさらに呆れる発言をしたのだった。

「なんや、建築学科があるやないか。建築学科にせえや」――。「いや、デッサンやってないと無理やから…」私はすぐにそう答えて父を黙らせたが、数ある学科の中から建築学科を推してくるというのがいかにも父らしく、反吐が出そうになった。理由は簡単だ。建築学科なら建築士の資格をとれると思ったからである。建築士であれば社会的地位もそれなりに高く、周りに自慢できるからだ。またしてもステイタスである。

私の人生なのに、さも簡単に「ここにしろ」と思いつきで言ってくることにも呆れたし、何より「金がかかる」と言って一蹴したデッサンのことも、何もわかってはいないのにそう言っていたのだなと思うと、私の人生とは一体何なんだろうと虚しさがこみ上げた。自分が望んだ道は、開けることなく10代のうちにあっけなく閉ざされて終了したのだ。しかも二度にわたって。これからはもう、その望んだ道を行く人を「羨ましいな」と思いながら、その道とは永遠に交わることのない別の道を、私は虚ろな目をして歩いて行くしかないのだと思った。

「芸術系の大学はよくわからないから自分で調べてください」――。進路指導の教師から冷たい対応をとられながらも推薦入試を受け、私はその大学に合格した。大学の手続きをする時、母から「奨学金の申し込みしといてな」と言われた。「奨学金?そこまでせな大学行けへんのやったらもうええって。だから専門学校がええって言うたのに」私はそう言って嫌悪感を露わにしたが、「そんなんじゃないけど、申し込んどいて」と母は言った。

そして、高校卒業後、「本当にやりたかったことはできなかった」そんな気持ちを常に抱えつつも、父から離れられるという喜びでもってその気持ちを掻き消しながら、私は「仮住まい」を出たのだった。

(第一章・終)

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