エド&リーのブログ

別居中のアラフォーゴーストライターです。生き様もほぼゴーストです。結論の出ない話多めです。

あぶくの家 ⑦決定打

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前回の話↓

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矛盾

「金がかかる」――。何度この言葉を言われたことだろうか。

私の世代ですら公立高校に進学することが当たり前だった地域で、兄や私が滑り止めで受けるレベルの、なおかつ地域でも数少ない某私立大学の附属高校に進学し、そしてその後エスカレーター式で東京にある某私立大学に進学した父。さらに夜逃げを考えるほど莫大な借金をこしらえた父。どうしてそんな父に「金がかかる」と、まるでこちらが加害者かのように言われなければならいのか。私はいつも矛盾を感じていた。

中学に入り、皆と同じように部活に入ろうとすると「金がかかる」、中学2年の時に美術科のある公立高校に進学したいと思い、デッサンの塾に通いたいと頼んでも「金がかかる」、いくら勉強を頑張っても、何をしようとしても言われるのは「金がかかる」。私たち子どもたちや母が少しでも父に対して何か反抗的な言動をとろうものなら、「誰のおかげでメシ食えとうと思とるんや」「誰がここまで大きいしてやったと思とるんや」そんな言葉をいきなり大声で浴びせかけられる。当時は「モラハラ」なんて言葉はなかったが、私が中学生になる頃には父はすっかり「モラハラ親父」になっていた。

父はいつもまるで自分一人の力でここまでやってきたかのような口ぶりで私たちに圧力をかけてきたが、母も、兄も、姉も、そして私も、内心「また言うとるわ」「よう言うわ」といった感じで、内心は完全に冷めた目で父を見ていたし、呆れかえっていた。当然である。反対に、どういう思考回路でそのような発言を堂々とできるのかが私は不思議でならなかった。この頃から私は、父の頭は狂ってしまったのではないかと疑うようになった。

反抗期

姉は高校受験の際、兄は大学受験の際、夜遅い時間まで塾に通っていたが、私は高校受験でも大学受験でもほとんど塾には通わず、中学生の頃、高校受験が終わるまではいつも近所の本屋に行って自分で問題集を選んで買い、その問題集を父の仕事場のコピー機でコピーし、何度も何度も繰り返し問題を解き、夜中も一人で自主的に勉強をしていた。

兄や姉に比べれば圧倒的にお金を掛けずに勉強をしていたと思うが、成績は3人兄妹の中で私が一番良かった。親から勉強しろと言われたことなど一度もなかった。ただ私は、成績が良いことで優越感に浸りたかったのと、お金がなくても勉強をすることで、一つでも自分の選択肢を増やしたかったのだ。

成績が良かった私は、当然のごとく三者面談でも自分が受験可能な学区で一番の地元の進学校に余裕で合格するだろうと言われ、担任からもその高校への進学を勧められた。

そしてそれを聞いた父は、私にその地元の進学校を受験するよう強く勧めてきた。理由は聞かなくても、その地域に住んでいる人なら誰でもわかることだった。大人も子供も「あの高校に通っている」というだけで立派なステイタスになるのだ。とてもとても小さな世界の、ちっぽけだけど、たいそう立派なステイタス。ただそれだけのことである。

父からはその高校へ進学するなら何をやってもいいと言われた。私は当時から音楽が好きで、高校生になったらギターを弾いてみたい、バンドを組んでみたいと思っていたのだが、あれほど何をするにしても「金がかかる」と言ってくる父が、その高校へ行くならギターなりバンドなり何でも好きなようにやっていいと言った。

しかし、私がその高校を受験することはなかった。

担任からは勿体ないといった話を最後までされ続けたし、父からもギリギリまで反対され続けたが、私は断固として地元の進学校への受験を拒否し、兄がかつて通っていた隣町の二番手の進学校の英語コースを推薦入試で受験すると言って押し通した。

地元の高校は家から近すぎるから電車通学がしたいとか、地元の高校は制服がダサいとかいう理由もあったが、一番大きな理由は父への反発心だった。私が自発的に頑張って勉強しただけなのに、私が地元の進学校へ入学すれば、父が誇らしげに、まるで自分の手柄のように近所の人たちに自慢することは目に見えていた。それが許せなかった。鼻っ柱をへし折ってやりたかった。

そして、兄と全く同じ進学先であれば、父も兄の手前、受験を否定することはできないだろうと私は考えたのだった。

ただ、その推薦入試は条件付きのものとなった。もし不合格になってしまった場合は、後日行われる一般入試で地元の進学校の普通科を受験すること――。とはいえ、仮にそうなってしまっても私は一般入試の時に答案用紙を白紙で出そうと考えていた。それで地元の進学校に通えなくなっても、父の母校である私立高校にはすでに滑り止めとして受験をし、合格もしていたからである。ここでもまた、滑り止めの高校に進学しても父は自分の母校なので文句が言えないだろうと私は考えていたのだ。

ただ、父と同じ高校にも入りたくなかったので、私は絶対に推薦入試で兄と同じ高校に合格しようと、いつもに増して勉強をした。勉強のし過ぎで中学生なのに痩せて、生理も止まった。後にも先にもあんなことはあの時だけである。今思えばあそこまで勉強しなくても多分合格はしていたと思うが、雪のちらつく寒い日の午前中、小さなベニヤ板でできた掲示板に自分の受験番号を見つけた時の嬉しさはこの上ないものだった。

私は、受験戦争に勝ったのではなく、父に勝ったと思った。

決定打

私がそこまで父を軽蔑し、反発心を抱いたのにはそれなりの理由があった。無論、もはや日常的かつ理不尽に私たち家族へと向けられるようになった父の理解できない言動も私をそうさせた要因ではあるが、私が中学3年生の時、そう、ちょうど受験の頃に、「この人はもう駄目だ」という決定的な出来事が起こったのだ。

いつからだっただろうか、気付けば父のプレハブ小屋の「事務所」に、30歳前後くらいの営業マンのような男性が頻繁に出入りするようになった。ある時は2人だったり、ある時は1人だったりもしたと思う。父は「◯◯くん」みたいな感じで親しげに話をしていた。「なんだか調子の良さそうな人達だな」と子どもながらに私は思った。

そしてその男性たちが出入りするようになって暫くしてからのことだった。ある日「仮住まい」の自宅から歩いて30秒くらいの、目と鼻の先にある空き地に、父がアパートを建てることにしたようだと母から聞かされたのである。

私は耳を疑った。なぜなら、すでに自宅が「仮住まい」ではなく「本当の家」になるのであろうということは頭では理解していたつもりだったが、まさか「本当の家」を建てるのではなく、それより先にアカの他人が住む家を建てるなんて1ミリたりとも想像していなかったからだ。

当然父にお金なんてあるはずはなく、あるのは祖父からもらったその空き地だけだ。仕組みとしては、父がその空き地に再び借金をしてアパートを建て、その建物を頻繁に出入りしていた営業マンの会社が借り上げ、父はその会社からいくらかの家賃収入を得るというものだ。もちろん借金をしているのは父なので、家賃収入は入るが借金の返済もしなければならない。順調に家賃が入り続ければ問題ないのかもしれないが、反対に家賃が下がり、家賃収入が減っても借金は残る。

どこにでもあるアパート経営の仕組みではあるのだが、当時の中学生の私には理解ができなかったし、正直未だに理解できていない。あれだけ借金をした人間が、また借金をしている。しかも、自分たちが住む家より先に、他人が住む家を建てる。家族に対して「仮住まい」と説明したにも関わらず、「仮住まい」が「仮住まい」でないことの説明もできていない。

そして極めつけはそのアパートに付けられた名前である。

「◯(母の名のイニシャル)△(兄の名のイニシャル)▢▢▢▢(私たちの住む地区の名前)」。

非常に表現し難い感情ではあるのだが、家族でありながらも、私は父から強烈な差別を受けているように感じた。まぁ私と姉は女なので、いずれ嫁ぐだろう=この家の人間じゃなくなるだろう、といったことを前提にしているのだとは思うが、その名前を聞いた時「私とお姉ちゃんは当たり前のようにそのうちいなくなるって思ってるんだろうな。私たちなんて所詮その程度の存在なのか」と思った。

母からアパートの話を聞かされてからほどなくしてアパートの建設は始まり、1997年1月、私が受験戦争の真っ最中だった頃、そのアパートは完成した。

そして、その二階建ての大きなアパートは、かつて私が父に手渡した「新しい家の絵」の家になんとなく似ていた。

(つづく)

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