エド&リーのブログ

別居中のアラフォーゴーストライターです。生き様もほぼゴーストです。結論の出ない話多めです。

【アウトか】因果応報について考える【セーフか】

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今月の大愚和尚のカレンダーが予言めいてる件

アウト?セーフ?

最近「自分の出方次第でアウトにもセーフにもできそう」な出来事があった。

わかりやすく例えるとすれば、あるお店で「研修中」という名札をつけた店員さんがいて、わりとあり得ないミスをされるとする。そこで、「まぁ新人さんだし黙っといてあげるか。騒いだところで無駄な労力使うの嫌だし」として流すか、「はぁ?こっちはお金払って利用してんだよ。ふざけんな。店長呼んで。ネットで炎上させたるわ」みたいな感じの出来事である。

皆さんも普段生活していて、多かれ少なかれそのような出来事はあるのではないだろうか。私はそのような場合「言ったり、言わなかったり」というタイプで、毎回黙ってるわけでもないし、かといって毎回キレたりもしない。そういう人も多いのではないかと思う。

で、そういう時に考えるのが「何を軸に判断するのが自分にとってプラスになるのか」ということである。私はそのへんの軸がブレブレなので、こういうことがあると毎回なんか「これでよかったのかな…」と引っかかってしまうのだ。

因果応報について

ところで、皆さんは「因果応報」という言葉についてどのようなイメージをお持ちだろうか。私は、例えば誰かに嫌なことをされた時に、

  1. 「あの人には必ず後で何か悪いことが起きるだろう」と先のことを考えてぐっと堪える
  2. 「私が◯◯だからこういうことが起こったんだ」と過去のことを考えてぐっと堪える

みたいに、どちらにでも捉えらえる言葉かなと思っている。

そして、因果応報について調べていると、偶然にも私がちょくちょく説法(というかYouTube)を聴いている大愚和尚が、以下の記事で因果応報についてこのように書かれていた。なお、私は大愚和尚の声が「エエ声」すぎていつも途中で寝てしまう(最低)。

president.jp

一部(というか結構な部分だけど)を抜粋しよう。

因果応報とは、「すべての出来事は、原因によって生じた結果である」という意味です。

もし「いま、あなたの目の前に起こっている現実は、すべて過去のあなたが選択した結果である」と言われたらどうでしょうか。

それがあなたにとって好ましい結果であれ、好ましくない結果であれ、あなたが過去に蒔いた種が、いま、実を結んでいる。

一方で、世の中には、どんな酷い状況にあっても、愚痴らず、腐らず、淡々と、今自分にできる最良の選択をし、今自分にできる最大の努力をしている人がいるものです。

そのような「因」を作り続けた人は、いつか必ず、その努力に見合った「果」を得ています。

蒔いた種は自分で刈り取る。これが因果応報の原則です。

記事を最後まで読むと、自分自身が因果応報について考える時、最初の1か2でいうと、2の考え方の方が良い気がする。まぁ2の考え方もちょっと極端かなとは思うけど。

私が見た「因果応報」

ただ、私は1の捉え方はあまりしない方がいいというか、精神的に健康的じゃないかなと思うのだが、若い頃に1の方の「因果応報」を感じさせる出来事を経験している。

小学校高学年の頃、私が属していた女子グループの中で、Aちゃんというリーダ格の女子がいた。そしてAちゃんはある時から順番にその7~8人くらいの女子グループの子のうち、1人を標的にして無視をするようになった。まぁ程度は軽いものの、言ってみれば「いじめ」である。

無視される期間は人によって違って、私の場合は3ヶ月くらいは続いたんじゃないかと思う。小学生の3ヶ月くらいって結構長いので、私は嫌な気持ちになりながらも他のグループの女子と一緒にいた。で、結果的に以前の記事でも書いた幼馴染のモテ女Mちゃんが私を救ってくれて、私はそのいじめから抜け出すことができたのだった。なお、後にMちゃんもターゲットにされることとなるが、私や他の子たちで阻止したことによりMちゃんへのいじめは未遂くらいで済んだ。

そうしているうちに私たちは中学生になり、中学でもやはりAちゃんはジャイアン的存在感を放っていたのだが、中2の時、1学年8クラスもあるというのに偶然にも私とAちゃんとMちゃん3人が同じクラスになり、そして事件は起こったのだった。

なんと、ある時から急にAちゃんの髪が抜け始めたのである。

本当に突然のことで、皆が戸惑った。最終的にはAちゃんはニット帽か何かを被って登校していたと思うが、それまではAちゃんの机の下には毎日大量の髪が落ちていた。

そしてAちゃんも自分の身にそんなことが起こったものだから、それまでの横暴なAちゃんではなくなり、身を隠すようにして学校生活を送るようになった。残酷な話ではあるが、それまで男女からチヤホヤされていたAちゃんの周りには、誰もいなくなった。

私とMちゃんは、ある日担任からAちゃんと仲良くするように言われたが、私たちは「バチが当たったんや」と言って反発し、Aちゃんを見捨てた。担任から呼び出された時、私がブチ切れて授業を受けずに勝手に帰宅し、その後をMちゃんが追いかけてきてくれたことを覚えている(そしてその後担任が家に来た気がする)。

今となっては、あれはAちゃんの家庭内でのストレスか何かが原因で、最初はそのはけ口として私たちをいじめていたが、それが身体に出るようになってしまったのではないかと推察している。そう考えるとAちゃんもまた被害者なのかもしれないが、私はAちゃんのせいでわりと最近になるまで友達グループみたいなのが怖かった。なので冷たい言い方ではあるが私はAちゃんには同情はしておらず、あの出来事は因果応報だったのだと思っているし、Aちゃんのことのみならず、1のパターン的な因果応報は実際にあると思っている。

審判を下すのは自分自身

で、結局どうなのかという話なのだが、残念ながらまだ私の中でこれといった軸は定まっていない。ただ、大愚和尚は先ほどの記事で次のようにも書かれている。

お金も、物も、愛情も、人からもらうことばかり、奪うことばかり考えている人。

自分の利益や快楽のためなら、他人を騙しても、裏切っても、傷つけても仕方ないと思っている人。

そのような人は、一時的に得をしたり、高揚感を味わうことはあっても、その喜びが永続きすることはありません。

人の恨みを買いやすく、近寄ってくるのは損得勘定で動く者たちばかりで、いざというとき、損得を離れて助けてくれる、本当の「友」ができないからです。

このことを踏まえて、自分は少なくともそういう人間にはなりたくないなと思う。

なぜなら実際に、Aちゃんもそうだったからだ。他人を傷つけたとう事実だけが残り、結果としていざという時になって人が離れていった。

嫌なことをしてきた相手の身に何か災いがふりかかることを期待してやり過ごすこともまた違うというか、なんだかそれも心が腐っていると思う。

だからといって「全部自分が悪い」と背負いこむのもなんか間違っていると思う。極端な話、もし自分の子どもが誰かに無差別に殺された時に「うちの子があの場所にいたのが悪い」なんて考えられないし、そんなことがあろうものなら私は全力で相手を潰しにかかるだろう。

ブレブレの私に今必要なことは、まずは目の前の状況を冷静に判断できるようになることではないかと思う。一瞬だけの感情で「アウトかセーフか」のジャッジを下すことなく、問題に直面した時にモヤモヤしたままうやむやにするのではなく、自分が納得のできる答えをいかに早く見つけられるかどうか。

また、先日もご紹介した東京事変の「原罪と福音」の歌詞からの引用になるが、まさに、

昨日の傷も恥も詳しく見たいだって審判を下す役は自分自身

これだと思う。審判を下す役は自分自身。だからこそ私は目の前にある状況から逃げず、しっかりと見つめていきたい。

(結局今日も長くなってしまった…ガッカリ)

原罪と福音

原罪と福音

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